城旅&グルメ時々怪獣

 定年退職後,無職無収入となって,第2の人生を送っている釣り好き,アウトドア好きな不逞の輩が,城郭巡りとグルメ情報を発信していきます。そして,時々大好きなウルトラ怪獣についても思いを語りたいと思います。「悠々」ではありませんが,「細々」と自適な生活を送っています。

第9日目,今日は品行方正に過ごそうと誓って,まず宇佐神宮にお参りに行きました。
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右から第一御殿,第二御殿,第三御殿と3柱の神が祭られています。順に,応神天皇,比賣大神,神功皇后です。第二とはいえ,比賣大神が最も立派な御殿で,しかも真ん中です。応神天皇は,八幡神ですので,宇佐神宮が全国の八幡神社の頂点にあると言えるでしゅか。神功皇后はその母ということになります。ここでちょっと考えたいのが,比賣大神のことです。一般的には固有名詞ではなく,女性の神のことを表す呼称なのですが,第2御殿で中心に鎮座していることに,疑問を感じないでしょうか。ここで,出雲大社のことを思い出していただきたいのですが,大国主命が祭られているこの神社は,二礼四拍手一礼です。一説には,大国主命に四拍手で死を知らせ,怨霊とならないように封じているという説もあります。しかも,中のご神体は正面から左,西の方角を向いていると言います。宇佐神宮の拝殿にも次のような看板が出ていました。
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誰が怨霊となることを封じられているのか・・・小生は「卑弥呼」ではないかと思っています。比賣大神として固有名詞をもたない神こそ,卑弥呼なのではないか。もともと卑弥呼も祈祷や占い,祭事を行う女性の呼称で,固有名詞ではないという説もあります。そんなこんなで,宇佐神宮に午前中いっぱい滞在してしまいました。次に中津城に向かいました。
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ここのお城は,黒田如水などもいましたが,最終的に幕末までいたのは,奥平氏でした。奥平氏とは,あの長篠の合戦で武田軍が大敗したときの長篠城主です。奥平貞昌はこの時,兵500で兵15000と言われる武田の猛攻を防いで,長篠城を死守した功が認められ,信長から信の字を与えられ,信昌と改名しています。この後,九州に上陸したとき寄れなかった門司港レトロに行きました。昼食を摂っていなかったので夕方でしたが,有名な焼きカレーを食べました。
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味のコメントはしません。有名なバナナマンもいました。お笑いコンビではありません。
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九州に来て,初めてのうどん以外の外食でした。今日はこれから洗濯です。

8日目,そろそろ着る物がなくなってきました。今日,明日のうちに洗濯する必要がありそうです。最初は延岡城です。ここのお城は,はっきりしていないことが多いのですが,この石垣が有名です。
延岡千人殺し
千人殺しの石垣です。どういうことかというと,この一部分だけを壊すと,一気に全部崩れて,千人を殺傷することができるというものだそうです。熊本城でわかったのですが,石垣が壊れることで,上の建物を守るという機能があるようですので,可能なことなのかもしれません。次に,佐伯城に行きました。ここも郭内に小学校があり,子どもたちの元気な声が響いていました。
佐伯三の丸櫓
現存の三の丸櫓です。この門の前が駐車場になっていて,小生が車を止めて歩いていると,みんなにジロジロと見られました。不審者に見えたのでしょうか。というのも,平日でしたし,ここには,小学生を送ってくる保護者ばかりだったのです。何か視線を感じるので,思いっきり旅行者感を出して,何も書いていない手帳を読むふりをしたり,キョロキョロしたりしながら門をくぐりました。次に臼杵に行きました。
臼杵城
現存の大手門と畳櫓です。ここは西美濃三人衆の一人稲葉一鉄(良通)没後,その嫡男が入府した城です。ちなみに,西美濃三人衆の残り二人は,安藤守就(道足),氏家直元(卜全)です。ここも二の丸で多くの人が集まってゲートボール大会が開かれていました。ひょっとして今シーズンなんでしょうか。ゲートボールをする人たちは,見かけない小生に,見ないふりをしながら,チョロチョロと盗み見をしていました。
岡城に向かう途中で,61体の国宝をもつ臼杵石仏に寄りました。
臼杵石仏
30分ぐらいでまわれると受付の人に言われたのですが,がっちり見てまわったので1時間ぐらいかかってしまいました。急いで激走して岡城に向かいました。ここは,屏風石垣と言われ,石垣が垂直に組まれています。
岡城
岡城に登城できたことで,荒城の月のモデルとなったと言われている5つの城をすべてまわったことになりました。ちなみに5城とは,作詞では,土井晩翠の出身地宮城の青葉城,晩翠がよく訪れたという九戸城,作曲では,滝廉太郎が小学校3年生まで過ごしていた竹田の岡城,3年生以降を過ごした富山城の4城に,福島会津若松の鶴ヶ城です。鶴ヶ城は何の所縁もないように思いますが,実は,土井晩翠自身が,鶴ヶ城がモデルだったとスピーチしているのです。次に,大分府内城に行きました。現存の人質櫓です。
府内人質櫓
本丸は臨時駐車場になっていました。今日の最後は,杵築城です。
杵築城
17時に門が閉まるというところの5分前に駆け込み,走って本丸の天守まで行って写真を撮り,逃げるように降りてきました。もうクタクタのグダグダです。あとは夕食を摂って寝るだけのはずでしたが,先ほど,お巡りさんから職務質問を受けました。朝はジロジロ,昼はチョロチョロと見られる不審者,そして最後に夜は職務質問と何だか釈然としない1日でした。

第7日目は,日南海岸を北上するところから始まりました。
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鬼の洗濯板です。誰が付けたのか,うまくネーミングしたと感心します。そこから10分ほど走って,青島に到着です。
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奥の島に青島神社があります。半世紀ぐらい前,家族4人で来たところです。当時と変わらない風景です。父母は亡くなり,姉と小生の二人になってしまいました。当時は,小生宅に自家用車はなく,レンタカーでの家族旅行でした。ここで一休みして,バーコレーターでコーヒーを入れました。朝毎日コーヒーを煎れてステンレスボトルで持ち歩いています。
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最初のお城は,天ヶ城です。何と,土日祝日以外は閉館ということで,近づけませんでした。
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近くは,いろんな施設が併設されていて,数えきれないほどのお年寄りが集まってゲートボールをしていました。プレイしていない人がそこら中を歩いていて,しかも,全く小生の車を気にもかけず歩いていて,とても危ない状況でした。
次に行ったのは綾城です。ここは伊東氏の48城のうちの一つですが,一国一城令で廃城になっています
。国際クラフトの城ということになっているのだそうです。
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ここから,本日のメインの高千穂に向かいました。途中,ご飯を炊いて,昼食を摂りました。おかずは,かの有名な赤鶏の炭火焼きです。
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昔,娘が初めて牛タン定食を食べたとき,あまりの美味しさに,牛タンだけをバクバク食べて,ご飯ががっちり残ったと言っていましたが,まさに小生もそれでした。香ばしくて柔らかくて,バクバク食べて,あとでご飯だけを食べることになってしまいました。高千穂では最初に「天安河原(あまのやすがわら)」に行きました。
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ここで天照大神をどうやって岩戸から引き出すか,神々が相談したのだそうです。このあと「天岩戸神社」を参拝しました。
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この拝殿の裏に天岩戸の洞窟があるのですが,決まった時刻に宮司さんの案内でしか見られないとのことで,小生は時間が合わず断念しました。最後に,高千穂神社に参拝し,本日の予定は終了です。
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今回,廻ってみて,小生は,古事記や日本書紀のことを知っているつもりになっているだけで,本当のところは,わかっていないことがわかりました。自宅に帰ったら,もう一度読んでみたいと思います。今日わかったことで,一番びっくりしたことは,昔,小生が絵本で読んだ「山幸彦海幸彦」の山幸彦が神武天皇の祖父にあたるということでした。明日は,大分県です。

快晴の朝,桜島の噴煙を眺めながら出発しました。
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鴨池・垂水フェリーで桜島の西側から鹿児島に渡りました。西側からは噴煙は見られませんでしたが,いつもこんなに出ているのは,小生にとっては恐怖だと思いました。最初は,鹿児島城です。御楼門といういわゆる大手門なのでしょうか,再建されているという門をめざしました。
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立派に再建されていました。門の中に入るとすぐ枡形になり,西南の役のときの銃弾の後が石垣にがっちり残っていました。
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小生のような動きの鈍い輩は,ここで何十発も銃弾を浴びてしまうだろうと思いました。さらに中に入りと天璋院篤姫の銅像がありました。
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大河ドラマの後,建立されたようでした。駐車場に向かう途中,西郷隆盛の銅像も見ました。
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大変不謹慎なことは承知で申し上げると,お腹のところは,鉄人28号みたいに感じました。しかし,西郷はこれほど地域の人に好かれているのに,今一つ,大久保の人気がないのは,どういうことなのでしょうか。小生に理解では,日本の近代化を成し遂げた第1の功労者は,大久保利通だという感覚なのですが,西郷の方が人情味があるから人気なのでしょうか。鹿児島を後にして,霧島神宮に向かいました。
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日本書紀や古事記の英雄,瓊杵尊が主神として祀られています。ここは説明することもない有名なところですが,この度のうちに,天孫降臨神話の高千穂に行く前に,ここでお詣りしたいと思ってきました。帰りに,何気なく鳥居の脇の岩を見ると,何と「さざれ石」でした。
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解説があったのですが,よくわかりませんでした。兎に角,国歌「君が代」に出てくるさざれ石ってこんな石だったのかと初めて知りました。今日の最後は,宮崎県に入って,飫肥城に行きました。ここのお城は,ものすごく楽しみにしてきました。あまりメジャーではないかもしれませんが,島津氏と伊東氏の長い長い争奪戦の末,島津氏が制圧したのですが,秀吉の仕置きで,その後,明治維新まで伊東氏の居城となった城です。大手門が再建されていました。
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中に入って,本丸をめざしましたが,何と本丸には小学校がありました。小学生がたくさんいるので,撮影禁止です。お城の本丸にある学校って素敵ですね。小生もこんな学校に通っていれば,もっと勉学に励んだかもしれない,なんてことはないですね。明日は,鬼の洗濯板や青島のある日南海岸を北上してみたいと思います。問題は,マンゴーを食べるかどうかです。

第5日目,普賢岳を見ながら,オーシャンアロー熊本フェリーで,島原港を出港し,熊本港をめざしました。
熊本フェリーから普賢岳
大先輩から,「昔,有明海でエイリアンを食べた」と聞かされていたのですが,直接熊本に行ったので,そちらの方には廻りませんでした。一口城主になっている熊本城の復興の様子を見に行きました。
熊本城
天守は何とか修復していましたが,それ以外はまだまだという感じでした。
熊本石垣
ここはまだ,石垣が手付かずです。こういうところがまだまだたくさんあります。旅の途中ですが,1万円寄付しました。
続いて,八代城に行きました。
八代城
このお城は,一国一城令の後も,熊本藩に存続を許されたお城です。加藤氏が去った後,小倉から熊本に入った細川氏が引き継ぎ,あの細川忠興が在城したそうです。江戸幕府が成立した後のことなので,細川ガラシャは来ていませんが,生きていれば忠興と一緒にここで暮らすことになっていたと思います。城の遺構は,石垣と堀だけで,本丸は,デッカイ神社になっていました。熊本県の最後は,人吉城です。
人吉城
石垣と堀と曲輪以外は何も残っていませんでした。ここの主の相良氏は,鎌倉時代から続く名族なのですが,それらしきものは見当たりませんでした。豊後の大友氏,薩摩の島津氏,肥後の龍造寺氏という大勢力に囲まれる中で,生き残った相良氏についてもう少し知りたかったのですが,残念です。明日は,鹿児島県です。

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